ストリートチルドレン

“Chocolate for me”

 信号待ちの交差点で、少年、といっても5歳くらいだろうか、に声をかけられた。今回のインドの旅行中、このように物乞いの少年に声をかけられることは、度々あったのだが、その都度どのように応接すべきか悩んでしまう。しかし、じっくりとどうすべきかを考えているような場面でもなく、咄嗟の判断が求められる。

“Chocolate”と言ってるのは、文字通りチョコレートを指しているというより、小銭等も含め何かくれ、と言っているのであろう。以前、物乞いの子どもにお金を渡すと、それが親にわたり、子ども自身にはその恩恵があまり返ってこないから、すぐその場で子どもの口に入る食べ物を渡した方がいいと聞いたことがある。物乞いにお金を渡す人がいるから物乞い生活から抜け出そうとしないのであって、お金を恵む、という行為自体すべきでない、という考えをもつ人もいる。一方、作家の灰谷健次郎さんが何かの本に書いていたと思うが、所詮旅行者なのだから、例えば途上国で物の値段を2倍3倍でふっかけられても、それで目の前にいる彼らのその日1日の食事がよくなるのであれば、それでよい、と考える人もいる。何が正解かなどわからないし、正解があるわけでもないだろう。

 私はそのとき、小銭とお菓子を渡した。お菓子はたまたま持っていたものだが、小銭はこういうことが度々あるので、渡すかどうかはその場その場で決めるにせよ、常にポケットに用意をしていた。旅行中、実は、現地の人たちが、物乞いの人たちにどのように対応しているかをひそかに観察していた。無視する人もいれば、さりげなく、本当にさりげなく、渡したかどうかもわからないぐらいの感じで、サッと渡している人もいた。

 2週間の旅行中に、何度も何度もこのような場面に出くわし、結局、毎回お菓子や小銭を渡すという選択をしていた。物乞いにお金を渡すのはかえってよくない、とする考えもわからないではないが、その日の食べ物にも困っているように思われる少年を目の前にして、そのような選択はできなかった。所詮は旅行者という外部の人間には、現地の人たちのおかれている状況を本当の意味で理解することは容易いことではなく、それなのに「渡すべきではない」と、こちらの理解できる論理でもって相手を理解した気になるのは傲岸に思われたという面もある。

 ところで、後から気づいたのだが、冒頭の ”Chocolate for me” は英語で、彼らの母語ではない。ストリートチルドレンが英語教育を受けているはずもなく、この言葉の意味はわかっていなかったのかもしれない。5歳の小さな少年は生きていくための術として、この言葉を身につけたのだろう。

「印度放浪」 藤原新也 著

 今までに訪れた国の中で、やはりインドは何か特別な感じがする。何が特別なのかと問われると、一言では説明しにくいのだが、聖と俗、貧と富がないまぜになったある種の猥雑さが魅力なのかなと思う。ただ、魅力、と表現したが、これは好き嫌いのわかれるところのようで、インドを旅行した人は、何度も行きたくなるか、二度と行きたくなくなるかの、どちらかにくっきり分かれる、という本当か嘘かわからないような話も聞いたことがある。

 この本の著者は、いわゆるバックパッカーとしてインドを旅し、そこで感じたことを写真と文章で表現している。著者の略歴を見ると、東京芸大の油絵科中退となっているので、写真の方の芸術センスはもちろん高いのだろうが、その感性の豊かさが文章の方でも表現されている。

 冒頭、「歩むごとに、ぼく自身と、ぼく自身の習ってきた世界の虚偽が見えた。」から始まる。写真家として「インドはね、撮りすぎるとダメなんだ。インドってのは撮れちゃうから。・・・だからインドへ行った人の写真はみんな同じになる。写りすぎるってことは、全部撮ってもダメということなんだね。インドは『何を撮らないか』というマイナスの作業でしか自分の視点が出てこない・・・」といいながら、インドでヒッピーに出会うたびに劣等感に悩まされる。それは、「いつも帰る場をしつらえておき〈〈生〉〉の行為を絵や文字によってはぐらかしながら旅したもののいったい何が”放浪”という名で呼ばれるだろうか。僕の旅は、それだけの覚悟によっていない。」から。

 分厚めの文庫本ですが、文章を読むのに疲れたら、写真のページだけをパラパラめくっても楽しめそうです。この本を通して、一人のバックパッカーの視線でインドを旅してみてはいかがでしょう。